葉山一色海岸を目の前にして建つ一軒家に住むデザイナーさんを取材しました。デザインしているものは何? それは、世界にひとつだけの「紋」なのです。ここからお客さんとコミュニケーションをしています。
夕暮れの一色海岸を歩く。今回の取材先はこの目と鼻の先だ。 「その人だけの紋をつくる」お名紋
「お名紋」という、変わったものづくりをシゴトにしている人が葉山一色海岸沿いの家にいる。藤田朝美さん、その人だ。
家紋ならぬ、その人固有の紋をつくってくれるサービス。名前の字に込められた「由来」や「願い」を依頼者から聞かせてもらい、オーダーメイドで世界に1つだけの紋をつくる。完成まで何回もメールでやり取りしながら要望や思いをかたちにしていくので、最初のコンタクトから2ヶ月以上要することもある。また1個1個完全なオリジナルなので、一度にたくさんつくれるわけでもない。話を聞いて、デザインを一から考えていくところから始まる。
左:世界でひとつ、その人固有の紋をつくってくれる「お名紋」。 右:お名紋作家、藤田朝美さん。 きっかけは、会社勤めをしていたときの、かつての上司に子どもが生まれたことだったという。そのお祝いに何か贈り物がしたいと思った。自分にできることで、「唯一無二のもの」を贈りたい。
考えた結果、その子の名前で何かできないだろうか……と、その字をアレンジしたマークをマルの中に入れて、本のしおりにして渡した。それが予想以上に喜ばれた。それじゃあ、と友人の子どもの分も、それぞれ名前の由来を聞いてつくった。また自身のブログで、100個までは無料でつくりますと書いた。女性から依頼がだんだんと来るようになった。
今では——おじいちゃんおばあちゃんが出産祝いに孫のお名紋を息子夫婦に贈る。子どもが生まれるたびに、その子の紋をオーダーするお母さんもいる。
個人で1万、法人で5万。高いと思うか安いと思うかは人によって違う。値段は、比較対象がないので、「自分にとっての価値」として注文者がどう捉えるかだろう。
グッズも最近ではいろいろと展開している。自分の紋をエンボス(型押し)で封筒に押せたら良い、紋入り名刺が欲しい、子どものロンパースに紋を入れたい。どれも元をたどれば、お客さんとのコミュニケーションのなかで出てきた要望から商品化したものだ。
基本的には最初から最後まで、お客さんと会うことはないがメールで密にやりとりを行う。そして、この海沿いの家から、デザインができたらメールで送る。忙しい日々だ。作業の合間に気分転換で浜を散歩するのが日課となっている。
家から一色海岸までは玄関を出て数十歩。 5年前、東京・恵比寿から鎌倉へ移住
以前は情報サービスの会社に勤めていて、ウェブサイトの開発や企画、広報などに携わっていた。大きな会社で、何十人何百人が関わって1個のものをつくる世界。しかし、最後のもうひと手間までこだわることがなかなかできない。人とやり取りをしていてもいいものをつくり上げているという実感までたどり着かない。きちんとコミュニケーションにこだわりたい。その結果としてのものづくりが行いたい。そう思ったら会社を辞めていた。「思い立ったら、一晩で決めていました」。
左:一軒家の2階部分をアトリエスペースとして使用。 右:レトロな風合いのキッチン。最初から作り付けの棚があった。 もうひとつの決心は引っ越しをするということだった。それまでは東京・恵比寿の高層マンションに住んでいた。しかしもともとは岐阜出身、山に囲まれた田舎の育ち。嬉しさがある土地に移りたいと考えて、鎌倉を選ぶことにした。
最初に住んだのは鶴岡八幡宮の近く、「西御門」のあたり。鎌倉駅から歩いて15分のところだ。気づけば、はや5年そこに暮らしていた。そして今年の3月、葉山の一軒家へ越してきた。
海の近さは「一列目」以上
東京に住んでいる人にはピンと来ないかもしれないが、湘南に土地勘がある人からすると、この葉山の物件がいかに特別であるかはすぐにわかるという。
稲村ヶ崎R不動産(現 鎌倉R不動産)では、湘南地域のもっとも海寄りを走る国道134号線に沿って建っている物件の希少度を表して、「一列目」(海に対して最前列の家、という意味)というアイコンで表現している。だが、この物件はさらにそれより内側、すなわち「一列目」の物件以上に海に近いのである。江ノ島の近くの腰越や逗子小坪、葉山堀内あたりで少しあるくらい、ここ葉山一色海岸エリアでは20軒もない。賃貸でも売買でも滅多に出てこない、文字通りのプレミアムだ。
左:もはや『海に行く』という意識ですらない。庭感覚。 右:緑が家の目の前に生い茂っているため、台風が来てもそれほど揺れないとのこと。 そこに築40年越え、木造だが2階建て・90平米の物件が出たのだ。しかも家賃も10万円ちょっとと、破格の値段。葉山御用邸と、葉山しおさい公園に挟まれた住宅街の中に。
「窓からの景色しか憶えてないんです。間取りとか部屋の中がどうなっていたかとか、まったく記憶に残ってない」。稲村ヶ崎R不動産(現 鎌倉R不動産)で見て、内見に来た藤田さんは、その場で申し込みをしてしまった。
「134号線のこっち側か向こう側か、距離にしたらそんなに変わらないけど、その感覚はだいぶ違うんです。道をまたぐと『海へ行こう』と頭で思って行く感じになる。ぜいたくを言うようですがそれだと億劫になるんですよね。でも、ここだと歯を磨きながらサンダルで海へ出て行く感覚」。
実は藤田さんが断っていたら、稲村ヶ崎R不動産(現 鎌倉R不動産)のオフィスを、ここに移転しようと内心思っていたと、稲村ヶ崎R不動産(現 鎌倉R不動産)代表のフジイは語っている。
湘南名物、夜な夜な隊?
藤田さんには同居人がいる。彼は、朝はゆっくり家を出て、夜は逗子から歩いて帰ってくる。「私以上に気に入っているみたいです。『帰ってきたときの気分が全然違う』と」。ちなみに、最寄りの逗子駅から東京駅までは横須賀線で1本である。
実は藤田さん、稲村ヶ崎R不動産(現 鎌倉R不動産)のフジイとは葉山の物件を借りる1年くらい前からの知り合いでもある。
フジイのまた別の知人に、稲村ヶ崎のバーでよく一緒になるSくんがいる。その彼がある日いきなり結成した「夜な夜な探検隊」という、湘南のお店を文字通り夜ごと散策する集まりがあってあちらこちらに出没していたところ、そこで出会ったのが「お名紋」の藤田さんだった。湘南ではコミュニティーがコンパクトな分、こんな風に人と人とがすぐつながれてしまう良さもある。
左:藤田さんと、稲村ヶ崎R不動産(現 鎌倉R不動産)の代表・フジイ。 右:毎日、自分のペースで仕事を進めている。 新しいものを生み出す土壌
湘南に越してきて現在の仕事を始めて、今では600以上のお名紋が生み出された。むろん、全部がオリジナル、ひとつひとつが違っている。 「考えてみれば、この全ての方と、まったくの初めましてから関係が始まったんだなあ。最近、フッとそれを思って一人で感動していました(笑)」
お客さんの中には、メールで何回も何回もやりとりをして出来上がった紋に高い満足度を得るとともに、格別の愛着を持つ人が多いという。また、自分の紋を見るたびに、こうありたいという自身の思いを確かめられるという人、我が子の紋を見て、改めてその由来とともに良い名前であると再実感しているという人、いろんな声が寄せられる。
「別に『お名紋』という風習があるわけでもなく、自分が勝手に言っているにすぎないことに対して、でも誰かがそれを嬉しいと言ってくれて、しかもそれがおカネまで生んでくれている。ある意味、奇跡だと思っています。それはやっぱり、普通に会社で働いてもらうお金とは全然違います」
左:のどかな近隣の風景。塀の上にはネコ。 右:これまでに制作したお名紋の一部。 この場所には東京に住むのとは違う、余裕のようなものが感じられる。そしていろんなものがあり過ぎないこの感じも大事なことのように思える。この不思議な魅力を持つ『お名紋』の誕生と、湘南ならではの落ち着いた環境とは無関係でないような気もする。それまでまったく世の中になかったコミュニケーションやサービスを生み出すには意外とこんな風土が合っているのかもしれない。藤田さんがデザイン作業をする2階の部屋の窓からのすがすがしい風景を眺めながら、そんな風に感じた。